ツマとムスメとウツボク

いきるってたいへん。でも、すばらしい。

「かっこいいね」とボク

連日、ムスメに関する投稿で恐縮でございます。

 

もうすぐ3歳になるムスメだが、

産まれてきたのが、本当につい昨日のことのようだ。

 

あっという間に大きくなってしまった。

 

新生児の頃は、「早く寝返りうたないかなあ〜」と思い。

 

寝返りをうったら、「早くハイハイしないかなあ〜」と思い。

 

ハイハイし始めたら、「早く歩かないかなあ〜」と思い。

 

歩き始めたら、「早くおしゃべりしないかなあ〜」と思い。

 

おしゃべりし始めたら、「早く会話できるようにならないかなあ〜」と思い。

 

会話できるようになったら、いつの間にか「イヤイヤ期」に入り。

 

「早く静かにならないかなあ〜」と思う。

 

なんて勝手な生き物なのか、父親とは。

(ボクだけかしら)

 

よくよく考えてみよ。

あたりまえじゃないのだ、この子が歩んできた道のりは。

 

おなかにいる間に、その尊い命を失う子もいる。

 産まれても、何かしら疾患や障がいを抱える子もいる。

色々な人生、色々な生き方があるのだ。

 

そういう現実があるのに、

平和ボケしている自分がちょっと情けなくなる時がある。

 

生きてくれているだけで、本当に尊くて、ありがたい事ではないか。

 

そんなムスメだが、

最近、ボクに彼女なりの「気づかいらしきもの」を示すようになった。

 

こどもは、「察する力」がある。

日々、そう感じさせられる。

 

ボクの体調が悪いことを、

ムスメは、頭で理解すると共に「感覚的」に理解しているような気がする。

 

だから、けっこう「察して」いる。

いや、察して「くれている」。

 

ボクがあまり元気のない日は、

ボクの言動の中で「褒めポイント」を探し、

 

「ぱぱ、かっこいいね!」

 

と、労ってくれる。

 

こんな小さなムスメに気を遣わせているかと思うと、

申し訳ないような、惨めなような、なんとも言えない気持ちになるが、

ありがたく受け止める。

 

今朝も、薬を飲む時に、

 

「ぱぱ、くすりみせて!」

 

ああ、はいはい。ほら、これだよ。

 

「うわ!ぱぱのくすり、かっこいいね!」

 

って。

 

で、ボクがその薬を口に放り込むと、

 

「ぱぱ、おくちあけて!」

 

ふがふが。はい。

 

「わあ!ぱぱ、かっこいいね!」

 

褒めすぎ、いくらなんでも褒めすぎ。

 

すまんな、「薬」と「薬を飲む姿」まで褒めさせちまってよ。

全然かっこよくねぇはずなのによ、なんだか、かっこよく思えてきたぜ。

 

先日は、一緒にお風呂に入るとき、

ボクの男性のシンボル(すみません)を見て、

 

「うあ!ぱぱの、かっこいね!」

 

それは苦しい、苦しいぞ。

基準を教えなさいよ、あなたの「褒め」の。

 

でも、こんな小さな命に、

こんな小さなココロに、

 

「元気になってね。」

 

という優しい気持ちが存在するのかと思うと、

時々、涙が出てしまう。

 

ボクは、ムスメたちを、

「養っている」とも、

「育てている」とも、

思ったことがない。

 

というか、思えないのだろう。

自分がこんな状態でもあるし。

 

たまに、自信をなくしたり、

情けなくなったりするけれど、

 

それでいいと思っている。

それが、いいとも思っている。

 

もちろん、「親の責任」というものは認知しているつもり。

これから更に求められる事になるだろうし。

 

でもさ、でもよ。

誤解を恐れずに言うとだよ。

ボクが「子宮から出てきた時期が30年早い」ってだけなんだぜ。

たったの30年。ただ、それだけ。

 

あとはおんなじ「人間」なの。

ボクには「かっこいいやつ」ついてるけど。

 

ボクは、ツマとムスメたちから、

日々、「まなび」「かんじ」「いかされ」ている。

 

養っているのではなく、

育てているのでもなく、

 

「いっしょにいきている」

 

それが、ボクにとって「かぞく」というもの。

最近、そう思うようになってきた。

 

今日も、「ウツボク」に来てくれてありがとうございます。

 

ムスメよ、頼むから外で「ぱぱのかっこいはなし」しないで。

特にお風呂のやつ。

 

新しいパパの教科書

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