手づくりのものに惹かれる。
自分では、ほとんど、いや、まったくと言っていい、
手づくりをしないので、余計に飢えているのかもしれない。
それと、時代背景。
技術の進歩により、効率的な大量生産が可能になっている。
それ自体はすばらしい。
技術者や企業の努力の賜物であり、
我々の生活を便利で快適にしてくれている。
もちろん、ボクもその恩恵をたっぷり受けている一人だ。
だが、ひと昔前、いや、ふた昔前くらいだろうか、
今とは全く違ったはずだ。
「手づくり」しか選択肢がなかっただろう。
こんな時代に生きているからこそ、なんというか、
ボクには「手づくり」が逆に新鮮で、ぴかぴかして見えるのだ。
ところで、
ボクは革細工が好きだ。
「にわか」だが。
職人さんが、ひとつひとつ、手づくりをしている革財布を愛用している。
(メルカリで誰かのお古を安く購入したので、やはり『にわか』なのだ)
「洗練され過ぎてない」ところが、素朴で「人の手」を感じるのだ。
本革を使用し、余計な加工がされていないので、
使えば使うほど、エイジングがかかり、
味わい深くなる。
当たり前だが、通常、モノは使えば使うほど古くなり、
壊れたり、見た目が悪くなり、廃棄せざるを得なくなる。
しかし、革細工など、この類のものは、
使い込めば使い込むほど、ある意味で「進化」していくのだ。
修理しながらも、長く、大事に使いたくなる。
なんとも豊かな、モノとの向き合い方ではないか。
もう、こっちの話題にシフトしたくなってきたので、
「エイジング」か「経年変化」というタイトルで、今度、記事を書くぞう。
話は戻り、
食事も、やはり「手づくり」が好きだ。
ツマのお母さん、つまり、ボクのお義母さんは、
「手づくり」をとっても大切にしてきたという。
お義母さんの手料理は、すこぶる美味しい。
目を惹くような、もの珍しい料理ではないが、
お赤飯、おしるこ、その他、いわゆる「おふくろの味」系の料理。
何年も、何年も作り続けてきたのだろう、
もはや「極み」の領域に入っている。
お義母さんのおしるこを初めて口にした時、思わず唸った。
ツマも、そんな環境で育ってきたので、
「手づくり」が自然になっているようだ。
毎日、手づくりごはんを食べさせてもらい、有難い限りである。
もちろん、ボクはツマの作る料理が一番好きだ!
とって付けたかのようになったので、一度ここで話題を切る。
先日、「パンの耳」について記事を書いた。
例の、老舗のパン屋さんで、最近、またツマがパンを買ってきてくれた。
いつもと同じ、食パンと、パンミミである。
ボクはパンが好きなので、どんなパンでも喜んで食べるが、
ここの食パンは、本当に美味いと思っている。
マーガリンもジャムも付けず、トーストもせず、
そのまま味わうのだ。
うまい…。
しかし、その日は、いつもの「しっとり感」があまり感じられなかった。
ややパサつき気味。
ツマも気付いたらしく、
「今日、いつもとちょっと違うね」
「うん、ちょっとパサついてるな」
これが、もし、スーパー等で買ったパンだったらどうだろう。
若干の怒りと、そのメーカーの食パンはもう買わなくなるかもしれない。
ところが、ボクらの会話の続きは、
「おじいちゃん、ちょっと調子悪かったんかね」
「うん、ちょっと失敗しちゃったんだろうな」
もちろん、ボクらの性格や受け取り方もあるが、
そういう思いにさせてくれるのは、
やはり、「手づくり」だからじゃなかろうか。
ツマもボクも、そのパン屋さんに足を運んだことがある。
素朴で飾らない、お店の雰囲気。
そして、パンを焼いてくれているであろう、店主のおじいちゃん。
「つくり手」が見えるのである。
だから、そのつくり手から生み出されたものは、
まるで生き物のように感じ、愛着がわくのかもしれない。
毎回、同じ味じゃない、同じクオリティじゃないところが、
なんというか、よいではないか。
人間味があって。
「手づくり」には、そんな大らかな気持ちにさせてくれる魔法がある。
ものすごいスピードで成長、進化していく世の中にあって、
忘れたくない、失いたくないコトのひとつ。
「手づくり」
今日も、「ウツボク」に来てくれてありがとうございます。
手づくりコロッケに3時間かけてから、しばらく何も作っていない。