昔から、「優劣」をつけるのが苦手だった。
小さい頃から、ずっと。
ちなみに、今も苦手だ。
「どっちがいいと思う?」
うーん、どっちもいいよ。うん、どっちもいい。
「どっちでもいい」ではなく「どっちもいい」なのだ。
わかるだろうか、このビミョーに違うニュアンス。
尋ねた方は、そんなことはどうでもいい。
「どっちがいいか」のアドバイスが欲しいのだから。
自他共に認める「優柔不断」な男である。
話は変わり。
小学生の頃、ドッジボールを相当やった。
朝早く来てやったし、休み時間にやったし、授業でもやったし、放課後もやった。
あの6年間で、もう一生分のドッジボールはやっただろう。
で、ドッジボールに付き物なのが、当然「チーム決め」だ。
授業でやる時は、先生がなんとなく公平に決めていた気がする。
そうじゃない時は、いろんな決め方をしていた。
ボクが一番苦手だったのが、「とーりっぴ」という方法だ。
どうやって選出されるのかは忘れたが、まず、代表者ふたりが選ばれる。
それぞれのチームのリーダーだ。
そして、そのふたりが「とーりっぴ!」という掛け声のもと、
じゃんけんをし続け、自分の欲しい仲間を選んでいくという方法だ。
あれが、好きじゃなかった。
今思えば、残酷だ。
もちろん、ドッチボールが上手いやつからどんどん選ばれていく。
ボクは、まあ、そこそこだったので、いつも真ん中くらいに呼ばれていた。
でも、一番最後に呼ばれるやつ。
それは、大体いつもきまっていた。
決める側のやつらは、「え~!」とか「うわ~!」とか、言う。
最後に残ったやつら、どんな気持ちだったのかな。
「最後」に選ばれたやつは、皮肉にも「最初」に当てられて、
楽しいドッジボールの時間の大半を「外野」で過ごす。
つまんなかっただろうな。
ボクみたいに、思い出したりするのかな。
それとも忘れちゃってるかな、そんなこと。
確かに、「とーりっぴ」はある意味、理に適っている。
上手いやつから順番に振り分けられるから、パワーバランスがとれるのだ。
だいたい、「平等なチーム」が出来上がる。
でも、ただそれだけだよ。
大体強さが同じチームが2つ出来るだけ。
「ドッジボールが弱い=ダメなやつ」
みたいになってたよなあ、今思えば。
全然、そんなことないのに。
じゆうちょうに、マンガとか迷路とか描かせたらすんごい上手いのよ。
「とーりっぴ」で最後に選ばれるやつ。
他のやつが出来ないこと、出来るんだから。
すごいじゃんか。
なんか、そんな風潮をそのままこじらせたような社会がまだある気がしている。
おとなになっても、まださ。
ボクは、恵まれて「くらべられる」という環境で育たなかった。
それは、両親にとても感謝している。
そして、今の家族にも。
ボクがどんな状態でも、ツマは決して「くらべない」でいてくれている。
「ボクらしさ」を認めて、信じてくれている。
周りの友人たちもそうだ。
本当に、恵まれている。
くらべているのは、自分くらいなものだ。
まわりとくらべたり、「過去の自分」とくらべたり。
くらべても意味がないと分かっていても、くらべてしまう時がある。
なんか、そういう気持ちって理屈じゃない。
みんな、大なり小なり、あるんじゃないのかな、そういうの。
自分で比べて「はぁ~」ってなってるところに、さらに、
人からくらべられたら、ボクは息が出来なくなってしまうだろう。
傷口にグリグリと塩をこすりつけられている感じだ。
でも、世の中には、そんな思いをしながら毎日生きている人もいる。
そういう環境で育ってきた人もいる。
そして、立場上、「優劣」をつけなければいけない人もいる。
「優劣をつけること」「くらべること」が悪いとは思っていない。
たいせつなのは、その「奥」にあるものだ。
ドッチボールが下手くそでも、そいつに「劣」と言わないでくれ。
迷路を描くのはめちゃくちゃ上手いんだから。
そいつの「ドッチボールの技術」に「劣」と言ってくれ。
そして、「劣」と言ったなら、
「でも、おまえの描く迷路のゴールはどこなんだ?」と、
笑いながら肩を抱いてやってくれ。
それだけで、それだけで、そいつはがんばれるのだから。
そんな社会に、そんな世の中になればいい。
きっと、なれる。
今日も、「ウツボク」に来てくれてありがとうございます。
「顔面セーフ!」とか、なつかしいなあ~。