だいたい、日々のルーティンでFacebookをガーッと流し読みをするのが常だが、
今朝、興味深い書き込みを目にしたので少しお話ししたい。
タイトルの通り、「協調性」ということについてだ。
「協調性」と聞くと、どんな印象を持つだろう。
周りと上手くやる、輪を乱さない、といったところだろうか。
「長所は協調性があるところです。」
は、もはや面接の常套句のような気さえする。
かくいう、ボクも言った覚えがあるのだが。
上記のような事が「協調性」だとしたら、日本人の多くの人は協調性があるだろう。
右に倣えは得意だし、全体の輪を乱す人間は少数派だ。
というか、そういう風に教えられてきている節がある。
自分が受けてきた教育でもあるし、それ自体を否定するつもりはない。
それも、「協調性」のひとつの側面だと思うからだ。
しかし、今朝、Facebookで目にした「協調性」の解釈に、ボクは膝を打った。
「お互いの違いを理解し、受け入れ、補い合う」
これが、「協調性」ではないかと。
うーむ、納得。
前述した「協調性」とは、似て非なるものだろう。
さきほどの、
「長所は協調性があるところです。」
が、この後者の意味ならば、本当に心ある会社の採用陣は、
前のめりになって話を聞くのではないか。
ボクだったら、こういう人と一緒に仕事がしたい。
「協調」について辞書で見てみると、このようにある。
【協調】
互いに協力し合うこと。
特に、利害や立場などの異なるものどうしが協力し合うこと。
ポイントは二文目だろう。
「利害や立場などの異なるものどうしが協力し合う」
ボクは、ここに「協調性」の本質を感じた。
前者の「協調性」は、「周りに合わせる」というニュアンスが強い気がするが、
それではまだ「浅い」。
後者の「協調性」は、もっと突っ込んでいる。
「大多数の意見や流れに自分を合わせる」ことと、
「自分と違う人間を受け入れられる」ということは、
意味も、スケールも、求められる勇気も、まるで違うだろう。
誤解のないようにもう一度言うが、決して、
前者の「協調性」を否定しているわけではないし、間違っているとも思わない。
周りに合わせる能力も、社会生活を営む上で、大切な力だ。
しかし、この「協調性」の方が、「本来の意味」のように浸透している現状が、
どうも危険な気がする。
なぜなら、協調性がない人間、つまり、周りと同じ事が出来ない、
同じ動きが出来ない人間が弾かれてしまう文化になりかねないからだ。
いや、もうなっているのかもしれない。
だとしたら、本当に残念なことだ。
本末転倒もいいところだろう。
しかし、後者の「協調性」は、むしろそれを補うものだ。
周りと違う人間を認め、受け入れ、支え合い、協力し合う。
弾かれる人間を輪の中に招き入れ、スクラムを組む。
異論はあるだろうが、これをボクも「真の協調性」と考える。
今朝見た、Facebookでの投稿のように。
この、もう一歩踏み込んだ「協調性」が世の中に浸透するのを願うと同時に、
こどもたちにそれを伝える最善の方法は、
大人たちがまずそれを実践することだろうと、襟を正す思いである。
そういう意味では、今回のラグビーワールドッカップでは、
たくさんの素晴らしいお手本がいた。
一過性の流行り廃りではなく、生きていく上で非常に重要なメッセージを、
ラガーマンたちは、プレーを通して我々に教えてくれたのではないか。
闘いが終われば、ノーサイド。
国も、肌の色も、背の高さも、体格も、考え方も、生き方も違う者同士が、
「ラグビー」の名の元に、抱擁し、互い健闘を称えあう。
多くの人がその姿に感動したのには、きっと理由があるだろう。
綺麗事かもしれないが、皆、 理屈抜きに「仲間」なのだ。
きっと、本当は、皆、そう思いたいし、そう思っているはず。
ひとりでも多くの人が、住みやすい、生きやすい世の中になりますように。
今日も、「ウツボク」に来てくださりありがとうございます。
「校長先生」はどの学校にもいるけど、「協調先生」ってのがいてもいいよなあ。

学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革 ―
- 作者: 工藤勇一
- 出版社/メーカー: 時事通信社
- 発売日: 2018/12/01
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る