人は、「誰かの役に立つ」ことが生きがいに繋がったりする。
仕事、育児、ボランティア活動、その他にもいろいろ。
それらは大変な反面、生活に「張り」をもたらしてくれているはずだ。
渦中にいると、なかなか気づきにくいけれど。
ボクは体調を崩して、生まれて初めて、
「なにもできない」という状態を長く経験した。
それは想像以上に、
孤独で、無力で、悔しい経験だった。
「自分の存在価値」を認めてあげるのが難しかった。
とてもとても、難しかった。
そんなもがいていた時期に、ある言葉に出会った。
『くまのプーさん』の言葉だ。
短くてシンプルだけど、ボクの心をずいぶんと軽くしてくれた。
プーさんは、こう言っている。
「ぼくは、『なんにもしない』をしているのさ」
クリストファー・ロビンが言うように、
「プーはおバカさん」だが、同時に哲学者だと思った。
「『なんにもしない』をしてる」…だと?
…あえて…か…。
小さな黄色いクマの一言に、うなってしまった。
「なんにもしない」って、基本的にはネガティブなイメージだろう。
「なんにもしないでゴロゴロして!」
「家のことはなんにもしてくれないんだから!」
日常的に家庭の中で聞かれる言葉。
それに対して、「ボクは『なんにもしない』をしているのサ」
なんて答えようもんなら、「はぁ!?」と言って頭をひっぱたかれそうだ。
なんていうか、上手く表現出来ないけど、
「サボる」とは違うのだと思う。
例えば、部屋に引きこもってずーっとゲームばかりしている子がいるとする。
ほとんどの親は心配するだろう。
しかし、それには理由があるはずなのだ。
その子なりの理由が必ずある。
確かに、学校もしくは仕事にも行かず、家に引きこもっていれば、
社会との接点を失い、その子の人生は前に進んでいないように思えるかもしれない。
人は、周りと違うと不安になることがある。
そして、前に進んでいないと、これまた不安になる。
しかし、前に進むだけが「人生」ではない。
そう思っている。
『人生ゲーム』をやった事があるだろうか。
あのゲームで、ひたすら前に進み続けてゴールする事は至難の業。
というか、そんな輩がいたらゲームが面白くなくなる。
進んだり、戻ったり、止まったり。
それがあるから、おもしろい。
今の自分を正当化するわけではないが、
「なんにもしない」だって「なにかする」と同じように価値があるはずだ。
「静」があるから「動」がある。
「動」があるから「静」がある。
「静」の中でしか学べないこと、気づけないこと。
実は、たくさんあると思うのだ。
「哲学者プー」の金言を胸に、今日も、「なにもしない」をする。
今日も、「ウツボク」に来てくれてありがとうございます。
嗚呼、ホットケーキにハチミツをべったりとぬって食べたい。