長い上に、やや、お下品なタイトルで失礼。
おなじみ、『男はつらいよ』の寅さんの言葉である。
というボクは、実はほとんど『男はつらいよ』を観たことがない。
『男はつらいよ』が大好きで、全シリーズ観ている友人がいるが、
もはや、寅さんの「粋」な部分がしみついている。
ボクも早く最初から最後まで観らねばいかん。
話はガラリと変わり、
昨今、傷ましい、哀しい事件が多い。
小さな命が、その子の親や、そのパートナーによって奪われている。
いや、昨今ではない。
前からこういう哀しい出来事はずっとある。
明るみに出ていないだけで、人知れず苦しんでいる家庭も少なくないだろう。
幼い命が失われる事に、深い、深い、哀しみを覚える。
と、同時に、その子たちの親もしくはパートナーたちの事も考える。
色んなケース、色んな背景があると思う。
誤解を恐れずに言えば、
同じ、幼いこどもと暮らす親として、
その人達の気持ちが全く理解出来ないわけではない。
当然だが、こどもはよく泣くし、わがままだし、自分の時間は間違いなく奪われる。
イライラしたり、カッとなったりもする。当然だろう。
ただ、人それぞれ、沸点も、キャパシティも全然違う。
親やパートナー自身が、幼少期に受けた影響も関係するだろう。
こういった問題は根が深い。
「ひどい親…。信じられない。」
では片付けられない、
色んな要因が重なって起きてしまっているように思う。
幼い命を取り去ってしまった、親やパートナーに同情の余地はないが、
彼らもまた、何かの「被害者」ではないかと、ボクは思うことがある。
ここではあまり深掘りはしないが、いつも考えさせられる問題のひとつだ。
これは、前述したような親やパートナーに限った事ではないが、
こどもを、自分や自分達の「所有物」のように錯覚してしまう事があるのだろう。
自分も例外ではなく、そんな思いに至る時、そんな言動に出てしまう時がある。
タチが悪いのが、自分達がそうなっている事に気付きにくいのである。
しかしながら、一度、スッパリと頭を切り替えて、考えてみる。
もう、当たり前すぎる話だが、
「あなた」と「わたし」は違う人間なのだ。
もう全く違う人間。
たとえ血が繋がっていても、だ。
その当たり前な大前提が崩れると、色んなバランスも崩れ始める。
当たり前すぎて忘れてしまうのだ、忙しい毎日に追われていると。
ボクとツマは夫婦だが、違う人間だ。
ムスメもコムスメも、違う人間だ。
すべての人は、この世に生を受けたその瞬間から、
ひとつの人格を持った尊い「個人」なのだ。
寅さんのユーモアあふれる一言には、揺るぎない真理が隠されている。
『早いはなしが、俺が芋食ってお前が屁をするか!?』
この当たり前すぎる「当たり前」が、
当たり前すぎて、我々の頭と心からスルリと抜け落ちることがある。
そして、近しい存在であればある程、一生懸命になればなる程、
それが見えにくくなってしまう側面もある。
親子関係だけでなく、夫婦関係、すべての人間関係に言えることかもしれない。
「オレはこう思ってるけど、おまえもそう思うよなあ?」
いやいや、そうとは限らないのだよ。
おまえが食った芋の屁が、彼女のおしりから出ないだろう?
おまえの屁は、おまえのケツから出るんだよ。
すべての人が、「ひとりの人」として尊重される世の中になりますように。
自戒も込めて。
今日も、「ウツボク」に来てくれてありがとうございます。
シュガーレスマンが食べれる唯一の甘いものは、サツマイモ。