ここ最近のボクは、
唯一できていた「書くこと」にもエネルギーが注げなくなっていた。
別に何か特別しんどい事があったわけではないが、
どういうわけか心身に力が入らない。
「誕生日なのに…」「クリスマスなのに…」
なにも家族にしてやれない不甲斐なさがボクに追い打ちをかけた。
しかし、今日、ある人から一通のメールをもらった。
このブログの感想と共に、ボクの「長所」を丁寧に綴ってくれていた。
その言葉ひとつひとつが、今にも干上がりそうなボクの心に、
潤いと安らぎ、そして、静かな自信を与えてくれた。
一通のメールでここまで人は元気になれるのかと、
「言葉の持つ力」に改めて驚かされた。
そして、今、自然と筆をとっている自分がいる。
「言葉」は力を持っている。
それがどれだけ大きい力なのか、
年齢を重ねるごとに思い知らされている気がする。
どんな「力」も、使い方を誤れば悲しい結果を生む。
SNS上で、不特定多数の人間からの、
「誹謗中傷」という名の「口撃」を引き金に、自らの尊い命を絶つ。
そんなニュースを、今年、何回観ただろう。
「口撃」をした人達は、どんな気持ちでそのニュースを観たのだろうか。
生きづらい世の中なのは分かる。
ひとりひとりが、毎日、必死に生きているのも想像出来る。
イライラする、ストレスもたまる。
理不尽な事なんて山ほどあるだろう。
どこかでそれを発散したり、吐き出さなければ、人は壊れてしまう。
だけど、だけどだ。
その吐け口を「人」に向けていい理由なんてひとつもない。
SNSの開発者は、そんなことは微塵も望んでいないはずだ。
「手軽」に出来る、それがSNSの大きな魅力のひとつ。
しかし、その「手軽さ」をはき違えてはいけないと感じる。
SNSが発達する前、さらにさかのぼり通信手段がない頃、
我々は、当然「顔と顔を合わせて」やり取りをしていた。
これが、本来のコミュニケーションの姿だろう。
むしろ、これ以上に有効で意味のあるコミュニケーションはないと思っている。
相手の表情や、しぐさ、雰囲気は、
どれだけ高性能の機器を駆使しても、全ては伝わりきらない。
ましてや、相手の顔が見えない、「言語」のみのやり取りのメールやSNSならば、
相手の表情や気持ちを「想像」する必要がある。
直接のコミュニケーションよりも、
ある意味の「丁寧さ」が求められると思うのだ。
しかし、タバコを道端にポイ捨てするように、
「言葉」を扱っているシーンを時々目にする。
その残り火が何かに燃え移り、やがてその炎は家々を包み込み、
尊い人命が失われ、人生と家族を崩壊させてしまう。
実際に、そんな信じられないことが起きてしまっている。
一方で、今回ボクが感じたように、
言葉は「人を生かす」こともあるから不思議だ。
ちょっと面と向かっては恥ずかしくて言えないことも、
メールや手紙なら伝えられたりもする。
場合によっては、メールや手紙の方が「想い」が伝わりやすい時も。
これだけ通信手段が発達した今、それらを使わない生活は考えにくい。
皆が利用しているので、圧倒的に便利で楽だ。
しかし、方法が「楽」なだけであって、
「言葉の扱い方」は楽になったわけではない。
言葉は、むずかしい。
そして、力がある。
どう使うかは自分次第。
今日もボクは、うーんうーんと考えながら、
「言葉」を生み出し、つなぎ合わせている。
これからも、ずっと、そうするつもりだ。
今日も、「ウツボク」に来てくださりありがとうございます。
と言いつつ、実際に言葉をコントロールするのに四苦八苦する毎日。