この体調不良というやつが厄介なのは、
「一進一退」という歩み方をすることだ。
長らく「退」が続いていたが、数日前から、
久しぶりに「進」がやってきた。
あまりに「退」が続くと、
「自分のノーマルな状態」がよく分からなくなってしまう。
ずっと、くもった眼鏡で世界を見ている感覚。
眼鏡かけたことないけど。
以前、Facebookのタイムラインを眺めていたら、
印象的な動画に遭遇した。
生まれつき聴力が失われていた赤ちゃんが、
特別な補聴器を着けて、生まれて初めて「母親の声」を聴くシーン。
はじめは、不安な面持ちの赤ちゃん。
しかし、補聴器を着けると少し驚いた表情になり、
次第に自分の名前を呼びかける母親の方を向きはじめ、
さいごに、涙を流しながらニッコリと微笑むのだ。
涙なくしては観れなかった。
とても美しいものにふれた気がした。
赤ちゃんのそれとは比較できないが、
長期間の「退」から抜け出た時、似たような感覚になる。
「世界はこんなにも色鮮やかだったのか。」
大袈裟だが、本当にそう思う。
家事をすること。
ムスメと遊ぶこと。
コムスメを抱っこすること。
みんなでワイワイ食事を食べること。
みんなでザブザブお風呂に入ること。
絵本を読んであげて、眠るまで見守ること。
ぜんぶ、息絶え絶えでやっていた。
出来ない日の方が遥かに多かった。
だからこそ、そのひとつひとつを、ここ数日噛み締めている。
久しぶりに、心からムスメたちを「愛おしい」と思えた。
ツマが普段どれだけ頑張ってくれているか、身に染みた。
自分の中に、そういう気持ちがちゃんと生きていてくれた。
安堵と嬉しさで涙がこぼれた。
この数日を経験出来ただけで、生きててよかったと思う。
「当たり前」を献上した、最大のご褒美だと感じている。
ただ、手放しでは喜べない。
「進」の次は「退」がやって来る。
今まで、「進」で舞い上がって何十回も痛い思いをしてきた。
だから、「進」を味わいつつもファイティングポーズはとる。
「進」の時に出来ること。
「退」の時に出来ること。
これは当然まったく違う。
ここ数日のように、クルクル動き回れる「進」の日。
朝から晩まで寝たきりで、寝る前に一言「…ありがとね…」と、
か細い声でツマにお礼を伝えるのが精一杯な「退」の日。
まったく違う日だが、「かけるエネルギー」は同じだと思っている。
クルクルと動く日にかけるエネルギー。
寝たきりの日にかけるエネルギー。
「出来ること」は 天と地ほど差があるが、
「取り組み」は同じだと思うようになった。
だから、「退」の自分を責めてはいけない。
たしかに、「進」と比べたら何にも出来ていない。
でも、「退なりに出来ること」を今日一日やったのだ。
寝たきりだったかもしれない。
でも、それが「その日の出来ること」だった。
自分の中の「進」と「退」を比較しているが、
「自分」と「他の人」にも同じことが言える気がしている。
ムスメが自分で何かやろうとするのを見守ること。
これは、想像以上に根気が必要だった。
つい手を出してくなってしまう。
「なんでこんなことができないの?」
「どうしていつもそうなの?」
人それぞれ、そんなことを日々思いながら生活しているのではないか。
でも、もしかしたら、その人は「全力」でそれをやっているかもしれない。
あなたが「全力」で投げたボールは遥か遠くまで飛んでいく。
その人の「全力」は、あなたの半分にも満たないだろう。
でも、「全力を出している」という事実は変わらないのではないだろうか。
もちろん、仕事であれば結果を出さなければいけない。
世の中で生きていく為には、どうしても「結果」を求られる。
しかし、ひとつの「ものの見方」として、
そんな捉え方があってもいいのかな、とボクは思う。
たぶん、一生懸命生きていない人なんていない。
仮にそう見えても、みんなそれぞれに、それぞれにしか理解できない、
葛藤、悩み、苦しみ、チャレンジと向き合っている。
「結果」だけでなく「取り組み」も認め合える。
そんな世の中になれば、いいなあ。
今日も、「ウツボク」に来てくれてありがとうございます。
みんなね、ほんとがんばってます、それぞれに。