普段、「蛇口」を気にして生活しているだろうか。
いや、そんな人はほとんどいないだろう。
公共のトイレにたまにユニークで近代的なものがあると、
しげしげと見ながら手を洗うくらいなもので。
特に、自宅の蛇口は毎日使っているから、もはや風景と化している。
そういえば、「蛇口を触らない日」って無いかもな…。
どうでもいいか。
いや、もしかしたら、中には「蛇口フェチ」みたいな人もいるかもしれないから、
適当な発言は控えよう。
さて、
みなさんの自宅の蛇口はどんなタイプのものだろうか。
まあ、タイプといってもそんなに色々はないと思うけれど。
最近は、もはや、このタイプが主流なのだろうか。
ちなみに、我が家は昔ながらのこのタイプ。
今の家もだが、実家もこの古めかしいタイプだったので、友達の家に遊びに行き、最初の写真のような、スタイリッシュな蛇口(あれはもはや「蛇口」ではない)に出会うと、なんとも羨ましかったし、憧れていた。
今もちょっと憧れている。
カッコイイ。
しかしながら、最近、この「レトロな蛇口」も悪くないな、
と思うことがあったので、少しお話したい。
本当に、こどもの成長というのはアッという間で、
ついこの前までいっしょに手を洗っていたムスメが、
最近では、少しずつ自分で手を洗うことを覚え始めている。
「蛇口をひねる」ことに、おもしろさを見出したようだ。
小さな感動も束の間、
水流しっぱなし、ハンドソープ出しまくり、全身水浸し、
親にとっては残酷な現実がすぐさまやってきた。
ツマにハンドソープを没収され、
ワンプッシュでほんのちょっとしか出ないやつに変えられていた。
それでもシュコシュコと押しまくっているが。
ここ数日は、そんな「水場戦争」もひと段落し、
ムスメも割とおとなしく手を洗うようになってきた。
しかし、新たな問題が。
蛇口を「開ける」ことは出来るのだが、「閉める」ことがどうしても出来ない。
気が付くと、誰もいないはずの洗面所から、
「チョロチョロチョロ…」
と、水の流れる音が聞こえてくる。
我が家の節水婦人がスッ飛んでいく。
「お水はね、お金とおんなじ。だいじだいじなんだよ。」
と、ツマが最大限に丁寧に説明しても、本人はポカンである。
たしかに、まだちょっと難しいかもしれないね。
と心の中で思いながら、
自分はいつも髪を洗う間、シャワーを出しっぱなしにしており、
以前よりツマから厳重注意を受けているにも関わらず、
いまだに続けているので、何も言えずに黙って見ている。
我々は、当たり前にやっているが、
「蛇口を閉める」という動作は、案外むずかしいのかもしれない。
何度も、手本を見せたり、
手添えをしながら閉める練習をするが、やはりむずかしい。
「あのカッコイイタイプのやつだったら、大丈夫だったかもなあ」
なんて考えながら、まあ、いつかは出来るようになるだろうと放っておいたら、
昨日、出来た。
ムスメが手を洗う時は、「蛇口閉める係」が必要なので、
いつも後ろからそっと見守っているのだが、
昨日、どういうわけか、出来た。
「おっ!閉めれたやん!」
と声をかけると、本人も嬉しそうにニヤニヤしていた。
それから、何回か自分でもやっていたが、
どうやら「仕組み」を理解したらしい。
難しい顔をして、頭をひねりながら、蛇口をひねっていた。
昨夜、そんなムスメの姿を、うしろから見つめながら考えた。
なんか、結局、ボクのブログの結びは、
いつもこんなことばかり言っているが、
「便利さ」は、時に「考えること」や「試行錯誤」を、
奪ってしまうのことがあるのかもしれない。
「蛇口」のない時代、人々はどうしていたか。
井戸水を利用したり、水がめに水を溜めて使っていたんだっけ。
今も、そんな国はあるだろう。
誰かの素晴らしいアイデアやひらめきによって、
日々日々、便利で快適なものは生み出されていく。
それそれは、すばらしい。
もはや、そのスピードに追い付けないくらいだ。
ついこの前、便利だと思っていたものは、
もう「不便」になっていたりする。
だからこそ、たまには意図的に、
昔にタイムスリップしてみるのがいいのではないか。
そこには、手間のかかること、非効率なこと、めんどくさいこと、
そんなことがゴロゴロ転がっている。
でも、先人たちが、それを築き上げてきた。
そして、今がある。
「めんどくさいこと」に、実は大きな価値があるのかもしれない。
今だからこそ、ね。
今日も、「ウツボク」に来てくれてありがとうございます。
今朝、誰もいないはずの洗面所から「チョロチョロ…」と音が聞こえてきました。
犯人はボクでした。