おもたいタイトルだけど、
きょうはなんとなく、こんなことをかきたいキモチです。
いのちあるものには、かならず「おわり」がくる。
しょくぶつも、こんちゅうも、どうぶつも、そして、にんげんも。
「はじまり」があるから「おわり」もあるのだ。
「はじまり」にも「おわり」にも、「なみだ」がついてくる。
「はじまりのなみだ」は、うれしい「なみだ」
「おわりのなみだ」は、かなしい「なみだ」
おなじ「なみだ」だけど、ながれる「りゆう」がちがう。
「おわりのなみだ」には、いろんな「かなしみ」がある。
ひとの「なみだ」は、けっしてくらべることはできない。
でも、たぶん。たぶん、いちばんかなしいのは、
「じぶんでおわりをきめた」いのちへの、なみだだ。
「どうして?どうしてそんなことしたの?」
まわりはそうおもうだろう。
でも、「いのちのおわりをきめたひと」のきもちは、だれにもわかりっこない。
おとうさんにも、おかあさんにも、わかりっこない。
「おわりをきめる」まで、どれだけくるしんだんだろう。
「おわりをきめる」まで、どれだけかなしんだんだろう。
「おわりをきめる」まで、どれだけかんがえたんだろう。
じぶんが「おわる」ことによって、まわりがかなしむ。
きっと、そんなことは、よーくよーくわかっていたはずだ。
おとうさんが、おかあさんが、どれだけかなしむか。
きっと、わかっていたはずだ。
きょうだいや、ともだちたちが、どれだけかなしむか。
きっと、わかっていたはずだ。
でも、でも。
わかっていても、どうにもたえられなかったんだ。
それって、どんなきもちなんだろう。
いのちあるものは、みな、「いきようと」する。
あかちゃんはうまれたばかりのとき、
「いきたい、いきたいよーう!」
って、ないてるんじゃないのかな。
それが、いのちあるものにそなわった「ほんのう」だ。
でも、いきていると、いろんなことがおきる。
その「ほんのう」がしぼんでしまうほど、くるしいこと、つらいこと。
ざんねんながら、たくさんおきる。
にほんでは、いちねんに3まんにんいじょうのひとが、
じぶんで「おわり」をきめていると、いわれている。
じっさい、もっとたくさんいるだろう。
そのげんじつに、あっとうされる。
ふかい、ふかい、かなしみにおそわれる。
ボクは、かしゅの、もりやまなおたろうさんがすきだ。
なおたろうさんのこえがすきだ。
なおたろうさんのうたがすきだ。
なおたろうさんのつくるうたには、「いのち」をかんじる。
「いのち」をたいせつにしているひとなんだとおもう。
うたっているなおたろうさんのかおは、そんなかおをしている。
かなしみも、よろこびも、しっているかおをしている。
いきていくことは、つらくて、くるしくて、かなしい。
でも、ほんとうは、ほんとうは、とってもすばらしいことなんだよ。
そんなふうにいっているきがする。
なおたろうさんは、うたのなかで、
「いきてることがつらいなら。くたばるよろこび、とっておけ。」
といっていた。
うん、そうだよな。
ボクはそのことばに、なんだか、いつもなっとくさせられるのだ。
今日も、「ウツボク」に来てくれてありがとうございます。
本日は、ひらがなばかりでスミマセン。